昭和52年03月25日 行本家霊祭



 おかげ頂きました。親が子のことを思い、子がまた親のことを思う、そういう思いの交流が、真で開けぬことはないというお道だと思うです。今日の霊祭を奉仕させて頂きながら大きな鍵、鍵を頂きましてね、あの何かしかも両方が、あの鍵になっていると言う様な感じです。しかもて頂いかなんですけど、あの先祖を大事にするとか、親を大事にするという、それが真の信心からこう言う形になって現れてくる。
 そこには御霊様もまあ言うならば一つの御霊の位も一段一段進むと仰せられるのは、一段一段進むと言う事は、このここに一つの壁のようなものがやっぱある。その壁が例えばあの遺族のものの真心で、カチッと鍵が開いて次の段階に進んでいかれると言った様な、おかげになってくる。これ遺族の上には、今までどうにも出来なかった問題なんかが、解決していくと言った様なおかげになって現れてくる。
 だからそう言う様な、あの真心を持ってする時に、そういう御霊様も助かっていかれ、私共の上にもまあそれが、おかげを頂かなければならんからというのではなくて、やむにやまれん思いから、そのお祭りならお祭りを奉仕される所から、開けない所が開けていく、そういう働きがなからないと御霊にも楽しみがない、私共人間にも楽しみがない。この辺の所に天地の親神様の、お心の深さというかもう一段一段信心を進めさせて、そして安心の御霊喜びの御霊、私共としては日々神恩報謝の生活がでけれる。
 人間の幸せ世界というものが開けてくる、ひとつのそういう手立てが、やはりおかげであり、おかげがなしにはやはりそこが進みません。金光様の御信心させて頂けば、そういうとこがすっきり分からせて頂く。今朝からのご理解に、分かるところが分かると道が開ける、分かるところが分かるとおかげが頂かれる、それは取り上げられるものでも、また返って来る、と言う様なご理解を頂きました。
 分かるとこが分かると言う言が、真です。真にはまた限りがありませんけれども、より本当から本当の事を分かっていくに従って、お祭りひとつの、奉仕の仕方も充実したものになってくるでしょう。御霊様に対する、なら思いも、一段深くなってくれば、御霊様の助かりも一段深いものになっていく。私共も分かるところが分かることによって、一段おかげを頂いて進むことが出来る。
 最近合楽で言われる、自然界には、もう一切を丸うせずにはおかんという働きのみだと、言う事。それを例えば今朝当りからのご理解を頂いておりますと、分かるとこが分かると言う事。それはどう言う言が分かるかというと、お道の信心の根本は、親を大切にすると言う事、先祖を大事にすると言う事、自分の心を大事にすると言う事なんですけれども、例えば自然、自然界には人間を丸うせずにはおかんという、働きがあると言う事の一事が分かっただけでも。
 例えばここに嫌な問題が起っておるとか、難儀な問題があると言う、その問題をはあ、この問題によって神様は、私共の心をいよいよ丸くして下さる働きだなと分かる、分かるとこが分かる時に、どうしてこんなむずかしい問題、こんな難儀な問題と思うておった問題が、丸うして下さるための、神愛以外にないことが分かる。そこへお礼が言えれる。そこに一段次のおかげの世界が開けてくる訳です。分かるところが分かると言う事は、そう言う事である。
 今日のまあ時点で申しますと、いわばどういう問題であっても、神様の神愛の表れであると分かる時に、なら困るなとかこの問題を向こうに押いやりたい、と思うておったような問題を、みなこちらのほうへ受けて、それを正して頂こうそれによって、より円満な心を頂いていこう、という心が分かるところからそれが出来る。それが神様の喜びともなって、また一段進んだおかげの世界に住むことも出来る。
 いま、合楽理念のある限りの御霊たちが、そう言う所に一つの分かるところが分かって、次の段階に進んでいく、おかげを頂いておりますが、こういう式年祭というのは、そういう一つのきっかけを作って差し上げるようなもの、同時に自分たちもそれと同時に、御霊のほうの鍵もこう開けて頂くなら、私共の開けなかったこの道も、開けて来る様なおかげにも、まあなって来る訳です。
 おかげがどうこうと言う事じゃ無いけれども、おかげを受けないと、私共は中々信心が進みません。やはりその黍団子を貰わなければ、犬、猿、きじが桃太郎さんについて行かないように、そこからいよいよまあいうならば、鬼征伐の勿論自分の心の中に作っておる、改まらなければならないものでしょうけれども、その改まると言う事にも、磨くと言う事にも、おかげが伴わないと本気にならんのです。
 そういう意味で、真で成就せんことはないと仰る真を、まぁこの様な形で現した、それが御霊の一段と、御霊の位に進まれることにもなりゃ、私共のいくての上にも、どうにも出来なかった壁のようなものが開かれる。そこに真をより本当の真を追求する楽しみも、また私共にも出けて来るというわけです。限りなくいわば真から真を追求する生き方が、身についてこなければ成らんと思うですね。